愛の謎が解けて...
最近、夫婦喧嘩がめっきり減った。たぶん正月以来、大きな喧嘩はしていない。これには理由がある。今回はそれについて語ってみたい(笑)。
* * * * *
そもそも妻は、大学時代から「生意気な」やつだった。何でも語り合える仲間ということの裏返しだから仕方がないが、2人で議論が白熱して周りの友だちが「まあまあまあ」と止めに入る、なんてこともよくあった。
それでも当時は本気でムカつくことはなかった。たぶん恋愛ドラマなんかでよくある主役の男と女が喧嘩ばかりしていて...という、まさにあれだ。 俺は嬉しいような恥ずかしいような「やっべ~な~」という気分で、妻とは意識的に距離を置いていた。
卒業後しばらくして付き合い始めてからも議論はよくした。よく覚えてないが、たぶん「もっとどっか連れて行け」などと言われていたような気がする。でも結婚しているわけではないので嫌なら別れればいい。俺たちは常にそんな危機感にさらされながらも結局は別れず、むしろ危機を乗り越えるたびに運命を感じていた。
結婚してからも議論はよくした。営業マン時代(わずか5ヶ月)には「帰りが遅い!」と文句を言われ、英語オタク時代には「勉強しすぎ!」と文句を言われた。本来、気質的に俺は仕事人間、妻は家庭第一人間なのだ。何をまかり間違ったのか(笑)。
子どもが生まれてからは、議論は口論、喧嘩、そしてちょっとした破壊行動へとエスカレートした(笑)。ストーブを蹴っとばして壊すとか、箸をボキボキに折るとか...(苦笑)。子育てに関してはお互いに譲れなかったのだ。何故だろう、俺は自分の主張が通らないと本気でキレていた。たぶん人生で一番大切なものに出会ったのだろう。
そして原発騒動... 2人の喧嘩量はピークに達した(参考記事 1. 2. 3. 4. 5.)。放射能汚染に関する見解の違い(妻はネットで裏情報を逐一チェック、俺はあえて表情報だけ見て楽観主義)から始まった喧嘩は、いつもお互いの人間性の否定にまで発展。言葉を尽くせば必ず分かり合えると思っていた2人の気持ちが、この時ばかりは完全に離れてしまっていた。
それでも俺たちは頑張った。これまで通り議論に議論を重ね、喧嘩に喧嘩を重ねて、何とか相手を自分に引き寄せようとした。2人は傷つけあい、かつてないほどボロボロになったが、それと引き換えに、お互いの深い闇の部分にまで議論を掘り下げることができた。
やがて世間の混乱が収まるにつれ、俺たちの喧嘩も徐々に減っていった。結局、大きな決断はせずに済んだ。
しかしこの騒動の余波なのか何なのか、俺のキレやすさだけは元に戻らなかった。何故だろう、俺は放射能とは関係ないことでもすぐにキレるようになってしまった。
40代の焦り? 主夫の負い目? 本当の自分を生きていないという息苦しさ? 自分のプライドが危機にさらされるようなことがあると過剰に反応していたのかもしれない。
こうなると弱いのは完全に俺のほうだ。一時期ハマっていた本『世界でいちばん自分を愛して』(中野裕弓著)や、よく読んでいた育児書に載っていた「自己肯定感」という言葉を持ち出し、「俺には愛が足りない!もっと俺を愛せ!」などという恥ずかしい要求まで出る始末...
* * * * *
そんなある日...(今年1月半ば)
普段は疎遠な実妹からメールが来た。 正月に夫婦喧嘩で実家へ帰らなかった俺を気遣ったのかどうかは分からないが、妹はあるサイトを紹介してくれた。
『辺境ラジオ』 (MBS)
大阪のほうだけでたま~に(年に1~2回)やっているラジオの深夜放送だ。ポッドキャストで過去の放送は全部聞ける。で、そこで語られていた「愛」に関するウンチクで... 何というか、俺はたぶん、救われた。
要旨はこんな感じ。
----------------------------------------------
「愛」というのは少なくとも2つの概念で成り立っている。
1つは「同一化」。もう1つは「敬意」。
同一化とは、相手のことを知りたいという気持ち。
敬意とは、相手のことが分からないと認める気持ち。
人間が誰かと出会い、好意を抱くと、その相手を知りたいと思う(同一化の欲求)。そしてその欲求を少しずつ叶えて同一化が進むと、やがて「知りたい」が「知っている」に変わってゆく。
その「同一化した」と思っている状態が危ない。その状態で相手が自分の理解を超える言動をすると、「ありえない、俺ならこうするのに、なんであいつは...」と猛烈な怒りに襲われる。価値観がすべて同一でなければならないと思ってしまう...
そこで大事なのが、相手への「敬意」(リスペクト、余地)。相手には相手の生活があり、自分には思い量ることのできない何かがある。それを無条件に認め、わからない(同一化できない)ままにしておく余地が必要。
「愛」の中身が「同一化」だけになってしまってはいけない。車の運転に喩えると、「同一化」はアクセル、「敬意」がブレーキ。ブレーキのない車は大変なことになる...
(結婚生活の秘訣)相手がどれほど理解を絶する共感できない振る舞いをしていても、温かい眼差しで「何やってるんだろう?」と思うことが大切。やっている本人の内側には必ず、主観的には首尾一貫した合理性がある。
自然現象を見つめる目と同じ。ランダムに起っていると思われる自然現象の背後に、ある種の数理的な秩序や摂理を...
人間の知性とか霊性というものは、わけの分からないものに向き合ったときに、優しい、深い眼差しを向けられるかどうか...
----------------------------------------------
そうだったのか...
出会って以来、20年以上に及ぶ俺たちの「議論」は...
放送では、愛が同一化に蝕まれるのを防ぐ方法として、親しい間柄でも敬語を使うことを勧めていた。何故か世間では、友だちや恋人同士、夫婦、親子など、親しい間柄ほど、短くて暴力的な言葉が使われているが、それでは「意味のある」深い会話はできないという。
俺は妻にも放送を聞かせ「よし、今度から喧嘩するときは敬語な」と宣言した。実際に2度3度やってみると、怒りと敬語が体内でぐじゃぐじゃになって何とも胸糞悪かったが、とりあえず以前のように怒りが加速度的に湧き上がってくるのは抑えられた。さらに敬語だと、上から物を言うのが抑えられるので、無駄に相手を怒らせることも防げたような気がする。
しかし俺たちにこの「敬語ゲーム」は定着しなかった。英会話の練習の「今から日本語禁止な」と同じだ(笑)。人間は必要もないのに面倒なことはできない。
でももはや、そういう「お芝居」は必要なかった。俺たちが喧嘩に至る構造(普遍的な愛の法則)を知ったことだけで十分だったのだ。俺はにわかに、す~っと力が抜けてゆくのを感じた。
そうだったのか...
妻は自然現象なのだ。
そう思うと、不思議と怒りはす~っと消えてなくなる。虹や雲を見るように、花や小動物を見るように、優しい眼差しを向けることができる。
すると今度は自分に対しても、同じような優しい気持ちになる。子どもに対しても、世間に対しても... 人は皆、神秘的で完全な小宇宙なのだ。
そうだったのか...
今、俺の心には、この歌が流れている...
♪ いつかは誰でも 愛の謎が解けて
ひとりきりじゃいられなくなる... ♪
佐野元春 『SOMEDAY』 より
※ 今回引用したのは『辺境ラジオ』2012年12月30日放送分の開始後17分~39分ぐらいまでの部分です。「愛は同一化と敬意である」の他にも「“自分らしさ”は呪いである」など興味深いことが語られてます。その他の放送日も面白いです。地方局の深夜だからこそ言える深いぶっちゃけトーク(政治ネタなど)が繰り広げられてますんで、興味のある方は是非聞いてみてください!
最近のコメント